『PARSLEY』と題された展示に込められたもの
高齢の男性が孫と思しき子供を連れて来場。ピアノを見つけた子供がちょこんと椅子に座り、鍵盤を叩きはじめる。決して上手くはなく、むしろ拙いといったほうが良いその演奏を男性が優しく寄り添い、見つめている。
2026年4月、ミラノデザインウィーク。市内ブレラ地区に設けられたヤマハ展示会場でのひとコマです。
「ふたりの人生の大切な時間にヤマハのピアノがある。この光景を見れたこと、この光景を作り出せたことで、自分たちの展示は成功だったのかもしれない」
ヤマハデザイン研究所主事の柏瀬一輝はそう思ったといいます。
毎年4月に開催されるミラノデザインウィーク。世界最大の家具見本市「ミラノサローネ」と市内各所でさまざまな展示が展開される「フォーリサローネ」で構成され、世界中から熱い視線が注がれるデザインの祭典です。ヤマハは今回で通算7度目の出展。柏瀬はそのプロジェクトリーダーを務め、チームをまとめてきました。
「装飾は飾りなのか。装飾は伝統か時代のトレンドなのか。装飾は無駄なものか‥‥‥。『装飾』ということに真正面から向き合って、展示の企画を進めました」
そう柏瀬が言うように、ある種、デザインの根源を問いかけるような命題を自分たちに課したデザイン研究所のメンバーが提示したのが、『PARSLEY』(パセリ)と名付けた6つのプロダクトで構成されるインスタレーションです。
「ヤマハ ミラノデザインウィーク2026特設サイト」はこちら
ミラノ市内ブレア地区に設けられたヤマハの展示会場
「歴史的に見ていくと宗教的、権威的な要素があったりするなかで、装飾の持つ力や魅力を多義的に捉えてみたかった」と柏瀬は展示への想いを話します。
ただ「それがどうして『PARSLEY』(パセリ)?」。そう思う方は多いでしょう。その疑問に対して柏瀬はこんなふうに答えます。
「パセリって日本だと添え物のイメージが強いですよね。一方、イタリアでは肉、魚、パスタなどあらゆる料理に欠かせない食材。文化や習慣、風土が違うことでパセリに対する感覚と評価は大きく分かれる。それって装飾の持つ多様性に似ている気がするんです」
「添え物だったとしても『料理人がそこにパセリの緑を置きたかった』気持ち。『ちょっと添えたくなった気持ちって何?』ってことに向き合うことが、今回のデザイン制作のアプローチに近い気がしたんですね。私たちは『装飾』の言葉の定義を探っていたのではなく、通常、製品をデザインする過程で『無駄』とされるものもあえて排除せず、それに向き合うことで、何か感情的、感性的な魅力みたいなものを受け取れるものを提示したいと考えていました。『PARSLEY』っていうタイトルは、ちょっとした遊び心も感じさせ、私たちの展示を表すのに合っているんじゃないかなと思ったんです」
柏瀬一輝(かしわせ かずき)
ヤマハ株式会社 デザイン研究所主事
2010年入社。電子ピアノ、ギターなどのデザインのほか、近年はオーディオ製品のデザインを担当。今回のミラノデザインウィークではプロジェクトリーダーを務めた
<W201B>から見えたピアノデザインの系譜
『PARSLEY』を構成する6つのプロダクトのうち2つのピアノ作品。<DRESSING>と<SPARKLING(スパークリング)>のデザインを担当したのがヤマハデザイン研究所主任の坂本志乃です。このうち展示ガイドのメインビジュアルにも使用され、『PARSLEY』のアイコンともいえる<DRESSING>の内部機構の再生・調整、外装塗装を担ったのがYPS掛川センターの技術者、山田和典と安松建のふたりでした。
坂本志乃(さかもと しの)
ヤマハ株式会社 デザイン研究所主任
2018年入社。管楽器や電子ピアノのデザインなどを経て、現在は浜松駅構内のヤマハ展示ブースのデザイン計画などコミュニケーションデザイン部門を担当
「これまでの仕事のやり方、考え方とは真逆」
今回フォーカスする<DRESSING>について聞くと、デザイナーの坂本、外装製作を担当したYPS安松から、はからずも同じ答えが返ってきました。
「私たちの手がける楽器デザインはファッションなどと異なり装飾的な要素はなるべく排除し、機能美を追求していきます。なかでもピアノはその典型かもしれませんが、余計なものを削ぎ落とし、引き算をしながらヤマハピアノとしてのデザインを完成させます。一方で今回のプロジェクトはフリーハンド。むしろ通常、排除してきたものとどう向き合うかがデザイナーに課せられた課題でした」(坂本)
「通常のピアノ再生における外装作業の基本は、傷や汚れ、損傷箇所を修復する。つまり『元に戻す』ということです。それに対して今回は元のピアノをベースに新しいプロダクトをつくりだすわけで、そのために塗装をどんな手順で、どう進めるべきかが最初はまったく見えていない、まさに未知の仕事でした」(安松)
<DRESSING>のベースとなっているピアノは<W201B>。1983年に製造された半艶ウォルナットの木目が美しい高さ131cmのアップライトピアノです。
<DRESSING>のベースとなったピアノ<W201B>(1983年製)
「YPS掛川センターの鈴木俊親(すずきとしちか)センター長に案内され、いくつかの中古ピアノを見たなかで出会ったのが<W201B>。ヤマハ独自の木工デザインが施されていて、これをベースにすることで、元のピアノが宿しているDNAを壊すことなく、むしろそれを活かしたものがつくれるんじゃないかと思いました」
そう<W201B>との出会いを話すように、坂本が<DRESSING>のデザインに向き合う際に留意したのが「ピアノデザインの歴史、装飾の意味を再定義する」ということでした。
<DRESSING>の大きな特徴が3分割された上前板の左右に配された照明です。
鍵盤蓋を開けることで自動点灯すると、ピアノブラックで塗装された上前板が鏡のような役割を果たし、演奏者の姿を映し出します。
坂本がデザインした展示作品のひとつ<DRESSING>。前面左右に照明を配置。ピアノブラック塗装面が鏡の役割を果たす
「もともとドレッサーのようにアップライトピアノに照明をつけてみたら面白いのでは」というプランは持っていたという坂本は、照明環境に恵まれていなかった昔のピアノには燭台というロウソクを置く場があったことを知り、「ならばその燭台を現代風に解釈してデザインできないか」と考えます。しかし現代のアップライトピアノにはその機能はありません。やみくもに照明を付加しただけではまさに『無駄な装飾』にもなりかねません。ただ<W201B>を前にした坂本は、上前板に施された額縁の木工加工に「燭台があった時代からのピアノデザインのDNAが宿っているように思えた」のだといいます。
<W201B>の分割された上前板は、第一義的にはトーンエスケープ(アップライトピアノの内部で響いた音を前方に逃がし、演奏者にクリアな音を届けるための音抜けの構造)機能を備えるための構造です。しかしそこに施された木工加工、まさしく『装飾』には、「時代を経てきたデザインの文脈がある気がする」。坂本はデザイナーとしての感性、感覚でそれを感じ取ったというわけです。
「いくらフリーハンドのデザインといっても、元のピアノが持っているものを壊してしまうのは『楽器に対する冒涜』のような気がしていて、それはしたくなかった。でもこの<W201B>ならば、元々のデザインベースに現代的な解釈を加えることで、新しい価値を提示できると思ったんです」と坂本はいいます。
デザインを本格的に開始する以前に坂本が描いたアイデアスケッチ
一方YPSの安松は、ベースとなるピアノが<W201B>となり、このプロジェクトがスタートするにあたって「デザイナーの方のアイデアに100%寄り添う」ことを決めたと振り返ります。
「普段の再生作業と違い、完成形はデザイナーさんの中にあるもの。それを自分たちの塗装技術によっていかに忠実に再現できるか。だからどんな要望にも『ノー』とは言いたくなかった。『どうしたらできる』『どうやることがいいのか』を考えることが今回の仕事だと考えました」
2025年秋、<DRESSING>の製作がスタートしました。